2009-08-29

きのふ朔立木「深層」光文社文庫(215・used)を読み終へた。四つの小説が入つてるので、ひとつひとつ行くか。「針」は小説ではなく、ルポとして書くべきだと思ふ。責任の所在を明確にしたうへで、それぞれの医師が裁かれるべきであつて、末端の現場の医師が全ての責任をかぶる結末は感傷的であり、承服できない。「スターバート・マーテル」7人の幼稚園児を殺した男の元妻の手紙の形だが、元夫に対して自分を十字架に架けられたキリストの脇に立つ聖母マリアに準えるのだが、それでは殺人を犯した元夫はキリストといふことになりませんか。まつたく受け入れられない。こんなことをもし、ホントの殺人者の元妻が言つたとしたら、オレは被害者の親でなくても断じて許さない。「鏡」この教師、地獄に堕ちろ。なぜおまへは温々と生きてゐるんだ。「ディアローグ」それらしい話に過ぎない。類型的でさへある。誰も傷ついてはゐない。涙を誘ふ感傷的な言ひまはしはある──実際に涙を零しもしたが、感動には繋がらない。なぜなら、この浅さ、薄つぺらさは頭の中で人間や人生を考へてゐるからだらう。かうした小説の執筆は、恐らく勉強ができて、成績がよくて、それで法曹界に身を置く著者の余技に留めて頂きたいものだ。蛇足ながら、解説の長田渚左といふ人へ。ノンフィクション作家ださうですが、これらの小説に対して「通俗をひっくり返す美学」と言つてるけど、まつたく意味が解らないよ。通俗をなににひつくり返すといふことなのですか。またこれらの小説が著者の「死亡推定時刻」よりも「文学性も高いように思う」といふ失言、いや発言がありますが、そこに優劣があるのかどうか、またその根拠はどんなところか言はないと、なにも言つてないのと同じでせう。

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