2015-06-30

迷宮の美術史 名画贋作

岡部昌幸(監修)・青春新書(×2)。空いた時間に、とパラパラ捲つてゐたら、結局最後まで読んでしまつた。本物だから価値がある、といふ理屈は判る。世界に一つしかないものだから?そつくりに作られた偽物だつて世界に一つかもしれない。版画、浮世絵、ウォーホルのマリリン・モンローはどうなる?

2015-06-24

600.鬼平犯科帳(七)

池波正太郎・文春文庫(used)。こつちはちと時間がかかつてしまつた。(六)のはうは買つて直ぐに読み始め、一気に読んでしまつたのだが。鬼平が実に好い。使ひのものへの心遣ひ、密偵五郎蔵と鶴吉への配慮など。解説を中島梓が書いてゐて、三島由紀夫の「文章読本」で読んだ鷗外の「水が来た」に触れてゐるのには、にんまりしてしまつた。さうなんだよねえ、これが頭の隅つこに残つてるんだよねえ。

2015-06-02

599.鬼平犯科帳(六)

池波正太郎・文春文庫(used)。漸く、小説が読めた。短篇は読み返したりしてゐたけれども、一冊をまへにすると、どうにも頁が進まない。けれども、鬼平のまへには、それも解決。やめられないのだよ。(七)と一緒に買つたのがよかつた。もう、次が読みたくてたまらない。(二)以降は新装版といふヤツで、活字が大きいのだ。確か、この中にある「狐火」はDVDで見たんぢやないかな。おまさがいい、なんてことをいひ始めると粂八も彦十もいい、伊三次も、与力同士も言ひ始めたらキリがない。そもそも平蔵がいいからね。この中のどの話のどこがいい、なんてことは鬼平を読む人には関係ないんだよなあ。判つてるんだ、だから鬼平を読むんだよ、きつと。平蔵の心遣ひとか、それに応へる密偵とのやりとりは堪らないね、ちよつと涙ぐんだりもしてしまふのだよ。これはやつぱり全部、本で手元にほしいね。

2015-06-01

598.犬は「びよ」と鳴いていた

山口仲美・光文社新書(used)。題名が面白さうだつたので購入。副題として「日本語は擬音語・擬態語が面白い」。わんわん、がたがたなどの擬音語、さらさら、べたべたなどの擬態語が日本語にはとても多くて筆者はそれに魅せられてしまつたといふ。草野心平や宮沢賢治は好きで使つてゐるけれども、逆に嫌ふ人もゐて、森鷗外や三島由紀夫は使はないやうにしてゐたのださうだ。その分類と日本語の歴史の中で、これがどう変化してきたか、そして動物の鳴き声の変化について書いてある。面白いけど、案外時間がかかつてしまつた。P105〜106にかけて「あっさり」と「さっぱり」の違ひを説明してゐるが、「あっさり」は「物や人の性質(属性)にのみ使う」のに対して、「さっぱり」は「それから受ける私たちの気持ちをも表す」と区別してゐて、なるほどと思つた。肝心の犬の鳴き声で、P120の「わんわん」の例は1642年の「古本能狂言集」所収の「犬山伏」の引用で、P124の「びよびよ」の例は1660年の「狂言集」からの引用なのだが、古いはうが「わんわん」なのはどういふことか。「びよ」が「わん」に変化した例になるのかなあ。それからこれはほんたうに些細なことだが、十返舎一九(ジッペンシャイックと読む、けしてジュッペンシャイックとは読まないやうにお願ひします、「十手」は「ジッテ」、「十戒」は「ジッカイ」です「ジュッテ」や「ジュッカイ」とは読まないこと)の「東海道中膝栗毛」の引用でP158のネズミの鳴き声のところでは「弥次さん喜多さん」と地の文では書いてゐるが、引用文では「北八」になつてゐる。それがP194の馬の鳴き声でも同じ「東海道中膝栗毛」から引用があり、そこでは地の文でも「おなじみの弥次さん北さん」と書いてある。なんでだらう。