2009-02-28

長嶺超輝「裁判官の爆笑お言葉集」幻冬舎新書(200・used)読了。爆笑するやうな発言はないのに、なんでこんな題名なんだろ。確かに一番最初に出て来る「死刑はやむを得ないが」「長く生きてもらいたい」といふ発言は、なに言つてんだ?と思ふけど。105円ぢやなかつたら買はなかつたらうが、まへに読んだ「裁判長、ここは懲役4年で……」よりはいいかな。

2009-02-22

一昨年の10月に亡くなつた打海文三の最後の小説「ドリーミング・オブ・ホーム&マザー」光文社(199・used)を読み終へた。「ロビンソンの家」を読んだばかりなので、人物の行動が一部交錯した。「時には懺悔を」から読み始め、テビュー作「灰姫」(絶版)と「裸者と裸者」「愚者と愚者」「覇者と覇者」の連作を除いて凡て読んだ。人物には幾つかのパターンがあるやうで、それを整理して分析するつもりはないが、例へば手塚治虫のヒゲオヤジみたいにあつちこつちに登場してゐる。背徳的でグロテスクで凶暴で甘美で幻想的でもある。音楽が「薄く」流れると書くのだ。低くでも小さくでもなく「薄く」と。

2009-02-17

打海文三「ロビンソンの家」中公文庫(198)を読み終へた。これは一気に2日くらゐですらすら読んでしまつた。要約すると面白さが零れてしまふ気がする。ラスト近くに従姉にまつはる出来事が主人公に伝へられ、香港へ向かう飛行機の中で終る。尻切れトンボで冒頭の整合性に欠けることはどうでもいいんだけど、映画で見てるなら受け入れてしまふだらう。なぜなら映画の時間は逆戻りできない。再び冒頭へ戻ることはない。記憶の中では戻れるし、昔の映画館だつたら、次の上映時間まで中にゐて頭から見ることもできたが、いまは一回の上映しか見られないから。しかし、本は違ふ。小説はもう一度頭に戻れるし、途中からでも最初に戻れる。先回りもできる(詰まらなくなるだけだから誰もやらない)。つまり、本を読む時間は戻れるといふこと。映画つていふのは見終はるまで戻らないし、戻れない。さういふ意味で打海文三は映画的だと感じるワケだ。この中にも映画への言及があるし、映画に深くかかはつた人らしく、殆どの作品が映画的なものを感じさせる。キングやクーンツが映画的だといふのとは違ふんだけど、序でにちよつと言ふと、ずこく具体的なところ。キングもクーンツも人物には必ず名前があり、服装や髪型、顔立ちなどについて実に細かい記述がある。例へば人物の顔がアップになれば、見る側にはその顔がみえてるわけだし、部屋なら部屋にあるインテリアについてカメラのやうに記述される。それが映画的だといふことで、これは映像的と言つたはうがいいかもしれない。構造にも映画的な印象があるけど、いまは説明できない。

2009-02-16

岩波新書のシリーズ日本近現代史①「幕末・維新」井上勝生(197)読了。学校の勉強をもう少しきちんとやつとけば、もつとすんなり頭に入つたのだらうね。いづれにしても、直感的に感じてた明治維新の立役者と呼ばれる人たちの俗物ぶり、野蛮ぶり、田舎者ぶりはほぼ当たり。朝廷の如何にも温室育ちの我が儘ぶり、取り巻きの公家の何様ぶりは知らなかつた。やはり幕府の役人たちは立派だつたのだよ。江戸時代のマイナスイメージは凡て明治維新以降に都合良く作られた幻想なのだ。いまも皇室の行事でなんとかの儀が執り行はれ、なんていふ記事が新聞に出るけれども、あれは何百年、何千年と続いた伝統的な由緒ある皇室行事ではなくて、その殆どが維新以降に作られた物だといふし。

2009-02-13

スティーヴン・キング「ドランのキャデラック」小尾芙佐他訳・文春文庫(196・used)を漸く読み終へた。面白い。人気があるのも当然だらう。クーンツもさうだが、ずゐぶん書き込むんだなあ、と思つた。日本だつたら、学校の作文同様に、もつと簡潔に書け、と言はれるだらう。趣向がそれぞれ違つてゐて楽しめた。さて、次は何から片付けよう。

2009-02-08

どうにもかうにも本が読めない、読み続けられない日々が続いてをり、読みかけが何冊か机に積んだままになつてゐるのだが、太田のイオンに行つたときに買つた、内田樹の「知に働けば蔵が建つ」文春文庫(195)を漸く読み終へた。内田樹の本は以前読んだことがある。「寝ながら学べる構造主義」といふ本だ。だから名前は覚えてゐて、立ち読みしたら面白さうだつた。もともとブログの記事だと書いてあるが、ブログの記事つて、書き捨てなんだよね。顔が見えない、顔のない文章とでも言へばいいのか。独り言みたいな感じで、自分でもやつてるから解るんだけど、ペラペラ喋るみたいに、あんまりじつくり考へないで打つてる。やつぱりそんな感じ。だから読めたとも言へる。中身についてはあんまり触れる気がしない。気が向いたら後で書かう。変換で苛立つので長く打ちたくないのだよ。……ところで、途中になつてるスティーブン・キングの短篇集「ドランのキャデラック」があと半分のところまで来た。初めて読むキングなんだけど、この展開の仕方はクーンツにも言へるかも知れないが、映画的だ。もつと上手い説明が思ひ付かない。読み終はつたら考へよう。もう一冊、キングと一緒にいつもカバンに入れて持ち歩いてる岩波新書の「幕末・維新」のはうは滞つてる。頭に入らない。幕府の人物名、朝廷側の公家の人名などが摑みきれない。実は同じところまで読んで一度滞り、また最初から読み始めたといふのに、この始末。どうする?もう一度始めから行くか。……といふ状態だといふのに、けふも小林賴子の「フェルメール──謎めいた生涯と全作品」角川文庫を見つけて買つて来てしまつた。一体どうするつもりなんだか。更に言へば、ヘンリ・ミラーの「マルーシの巨像」もクロード・シモンの「フランドルへの道」も、リサ・ランドールの「ワープする宇宙」もオーウェルの「1984年」も途中だといふのに。しかし、小林賴子は日本でのフェルメール研究の第一人者だといふぢやないか。フェルメールとなれば、つい手が出てしまふよなあ。