2013-03-08

このまへの投稿からけふまで、一冊もあらたに読み始めることができなかつた。いまもさういふ気持ちになれないのだが、以前読んだ本の中から気になつてゐたところを読みなほしたりしてゐた。例へば、金井美恵子が吉田健一の「私の食物誌」(中公文庫)の解説で書いてゐた「わたしが不自然だ」と思ふ比喩は丸谷才一の「食通知つたかぶり」(文春文庫)のどこだつけ、と不意に思ひついたものを探して確認する。或はPHP文庫の「相対性理論を楽しむ本」、「量子論を楽しむ本」などを拾ひ読みするけれども、始めから読み通すことはできなくて途中でなげ出す。後藤明生の「挟み撃ち」(講談社文芸文庫)の冒頭部分も読み返して、見事だなあ、と嘆息するけれども、そのまま読み進めることはできない。それからカフカ「ある流刑地の話」(角川文庫)と芥川龍之介「或る阿呆の一生・侏儒の言葉」(角川文庫)の中の数篇(この2冊は本を読むやうになつた頃から特別気に入つてゐる本で、カフカのものは「観察」と「村の医者」といふ短いものを集めたものが好きで、芥川では「たね子の憂鬱」「歯車」──これは閃輝暗点と呼ばれるもので、オレにも屢々現れる、車の運転も不可能だし、歩行すら怖い──「本所両国」特に「鵠沼雑記」、表題になつてゐる作品にはまつたく興味がない)なども手に取つてはゐるけれども、いづれも「読んだ」とは言へないだらう。
そんな中で、川端康成の「伊豆の踊り子」(新潮文庫で、ほか三篇あり)、小松左京の「蜘蛛の糸」、「沼」(いづれも「地球になった男」新潮文庫にあり短いものだ)はきちんと読み終へた。「伊豆の踊り子」の解説は三島由紀夫で、三島はこれを「断片という感じを与える作品ではない」と言ふが、川端自身は「もっと長い草稿の一部分であった」と全集のあとがきに書いてるさうだが、ずゐぶん久し振りに読んで、本人の言ふとほりではないか、と思つた。中途半端な作品といふ意味ではなくて、もつと長いものの一部といふはうが相応しい気がした。
それから結城昌治の短篇集2冊(角川文庫)から「温情判事」「長すぎたお預け」「私に触らないで」「蝮の家」の4 篇。上手い。筒井康隆のエッセイも拾ひ読みした。なかで触れてゐる佐藤愛子の「何に向かって」といふエッセイの原本を読みたいのだが見つからない。
さて、「よつてたかつて志ん朝」でも読み返すかな。

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