2009-02-17

打海文三「ロビンソンの家」中公文庫(198)を読み終へた。これは一気に2日くらゐですらすら読んでしまつた。要約すると面白さが零れてしまふ気がする。ラスト近くに従姉にまつはる出来事が主人公に伝へられ、香港へ向かう飛行機の中で終る。尻切れトンボで冒頭の整合性に欠けることはどうでもいいんだけど、映画で見てるなら受け入れてしまふだらう。なぜなら映画の時間は逆戻りできない。再び冒頭へ戻ることはない。記憶の中では戻れるし、昔の映画館だつたら、次の上映時間まで中にゐて頭から見ることもできたが、いまは一回の上映しか見られないから。しかし、本は違ふ。小説はもう一度頭に戻れるし、途中からでも最初に戻れる。先回りもできる(詰まらなくなるだけだから誰もやらない)。つまり、本を読む時間は戻れるといふこと。映画つていふのは見終はるまで戻らないし、戻れない。さういふ意味で打海文三は映画的だと感じるワケだ。この中にも映画への言及があるし、映画に深くかかはつた人らしく、殆どの作品が映画的なものを感じさせる。キングやクーンツが映画的だといふのとは違ふんだけど、序でにちよつと言ふと、ずこく具体的なところ。キングもクーンツも人物には必ず名前があり、服装や髪型、顔立ちなどについて実に細かい記述がある。例へば人物の顔がアップになれば、見る側にはその顔がみえてるわけだし、部屋なら部屋にあるインテリアについてカメラのやうに記述される。それが映画的だといふことで、これは映像的と言つたはうがいいかもしれない。構造にも映画的な印象があるけど、いまは説明できない。

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